いつも前だけを見てきた (その2)

ロミママ

2013年01月13日 21:11

    ≪ 幼児後期と世間のなりゆき ≫

    私は昭和2年に学校に上がったが、一般の農村では、大正の恐慌期と言
  われるほど不景気は続いていた。 しかも、どこの家でも貧乏人の子だくさん
  で、私の家も例外ではなく兄弟が多かった。 小学校へ上がる前から妹たち
  の子守をするのは、自然の成り行きだった。 だが、留守番をしていてお腹
  が空いても、戸棚には食べるものは何もない。 さらに悲しいことに、一人は
  村医者で、もう一人は父と私とで長野まで連れて行ったが、手遅れだと言わ
  れてそのまま病院で亡くなった。 二人とも7歳だった。 こうして思い出すだ
  けでもあの悲しみが甦り、涙がこぼれそうになる。

   その頃、母は夜明けとともに起きて働いていたが、それよりも早く私の家の
  大戸の前で待っている人がいた。 近所の人で、子供に持たせる弁当用の
  米がないからと言って、借りに来たのだ。 また、時々母は、かぼちゃやじゃ
  がいもを薄切りにしホーロクで焼いておやつを作り、子供に持たせてくれた。 
  それを、学校の帰りにでも出して食べようとすると、わっとよその子供が集ま
  ってみんな手を出す。 分けてあげるので、結局自分の分は少なくなった。

   当時の貧しさを考えれば、まだ鬼無里はよい方だった。それは、米を作る水
  田が少しはあったからだ。 隣りの小川村に行くと、谷が深くて水田は極めて
  まれだった。 病人が出ると、枕元で、竹筒の中へ少しの米を入れてそれを
  振って、「米のお粥をあげるよ」 と元気付けたようだ。 米のお粥が何よりの
  薬だったのだ。 

   子供時代の思い出はいくつもあるが、切なくつらかったことはなかなか忘れ
  られない。 小学校2、3年の頃、春になると学校では必ず身体検査がある。
  2年頃までは気にもならないが、3年くらいになるとパンツのないことが恥ず
  かしい。 そこで問題が出てくる。 組の中でも、自分のパンツを持っている者
  は半分もいない。 私も3年の時は、兄のものを借りて行った覚えがある。 
  4年生になって、母が初めて私のパンツを買ってくれた。 あれは嬉しかった。
  パンツ一枚でも、私は誇らしかった。 当時、男は12~13歳になると越中褌
  を締め、女の人は大抵腰巻だった。 東京のデパート火災の後から、女性の
  下着が流行ったと言われている。


                (白沢誓三の自分史 つづく)


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