いつも前だけを見てきた (その11)
≪ 結核性腹膜炎で療養 ≫
やっと名古屋郵便局勤務になったと思ったら、その年の秋には結核性腹膜
炎の治療のため長野日赤へ入院。 人生は本当にままならない。
担当医は繁田医師で、まず光線治療(レントゲン治療?)が毎週1回で、10回
で1クール。 あとは毎日下腹部に鯨油を塗ることだった。 当時は結核に対す
る良い薬はなかったらしく、静かに寝ているよりほかはなかったのだ。
翌年の4月初め頃退院して鬼無里へ帰り、しばらく自宅療養となった。 山
里の春は遅い。 雪が早く溶けだしたところから農作業は始まり、どこの家も
忙しい最中だった。 そんな時に私一人がただ寝ているのが本当に辛く、申し
訳なく思っていた。 当時の田舎では、病人の滋養になるようなものは容易に
は手に入らない。 鶏の卵を分けてもらうのも大変な頃だ。 私は気分の良い
日は田んぼへ出掛けてタニシを取ったりした。 兄は私のために、時々町の肉
屋に兎の肉があると買ってきてくれたり、またマムシやシマヘビを捕まえては
囲炉裏で蒸し焼きにし、ヘビの粉を作ってくれた。 そうしたある日、一通の手
紙が届いた。 病院で世話になった看護婦の志摩つねさんからだった。 療養
は長いけど元気を出して下さい、というようなことが書いてあった。
そんな療養生活が続いていくと、やはり職場のことが気になって、名古屋郵
便局へ出勤してみる。 ところがしばらくするとまた体調が悪くなる。 この頃の
病院には、軍隊で体を壊した人が何人もいた。 私の療養中に職場の通信技
術がどんどん進化して行き、同級生が中心となって運用しているのを見てつく
づく羨ましいと思った。 私のような者がよくクビにならなかったものだ。
同級生の中には、さらに頑張って逓信講習所の高等科や、東京の逓信管理
練習所へ進学する者もいた。 大抵は書記補になるのに、病気とはいえ私だけ
が取り残されていくようで全くもって情けないことだった。 体調がいくらか回復
してくると、まずは専門学校入学資格試験(専検)でも突破しようと考え、挑戦し
始めていた。
(白沢誓三の自分史 つづく)
関連記事