いつも前だけを見てきた (その18)
≪ 故国、日本へ ≫
昭和21年6月12日。 待ちに待った日がついにやって来た。 それは、ア
メリカが上陸用舟艇を貸してくれることになったのだ。 時期は思ったよりも早
かった。 港の設備もないので、はしけに乗って出て梯子で本船に移るのだ
が、体力の衰えた者はそれさえも大変だった。 手を引き、尻を押して、皆で
助け合って船に乗せた。 成功するたびに万歳が起こった。 輸送船で南へ
来た時のことを思うと、帰りの船はまさしく快適だった。 フィリピン沖、台湾沖
をそれぞれの思いとともに通過し、6月21日の夜は伊良子岬で仮泊。 翌22
日の朝、8時に名古屋港へ入港。 検疫などを終え、10時上陸。 部隊の解
散式を終えて、一歩一歩踏みしめる足に生きて帰れた実感が湧いてきた。
しかし、戦禍の大きさに先ず驚いた。 多くの戦友も同様だっただろう。
名古屋駅は残っていたが、あとから聞いた話では、20年3月と5月の大空襲
で、市中心部は焼け野原となり、名古屋城が炎上、名古屋駅も空襲を受けた
という。 苦楽生死を共にした仲間と再会の約束もそこそこに、皆郷里への道
を急いだ。 私も元の職場、名古屋中央電信局へ挨拶を済ませ、すぐに列車
で長野へ向かった。 当然座れる席などない。 長野から鬼無里へ1時間ほど
かかる乗り合いバスも、私にはまどろっこしく感じた。
家に着いたのは夕方だった。 母は、電話があったことを聞いたのだろう、
庭先まで出て私を待っていてくれた。 駆け寄って 「チカミツはただ今帰りま
した。」 と言ったものの、グッとこみ上げて後はことばにならない。 私の手を
強く握りしめ 「よく帰ってきたな。」 という母の涙声も、はっきりとは聞こえな
かった。 しばらく静寂な時間が流れ、その中で私はこれで本当に戦争が終
わったのだと思った。 この時の安心しきった母の顔は、66年たった今でも
忘れられない。 家では父母兄弟と無事を語り合ったが、中国へ行っている
弟はまだ帰ってきていなかった。 2~3日、近所や親戚への挨拶をして、職
場のある名古屋へ戻った。
名古屋へ戻っては来たものの、住むところも食べる物もない。 大きな建物
は所々に残っているが、一般の民家はほとんどない。 千種あたりから舞鶴
公園あたりまで見通せて、懐かしい公園の図書館がよく見えた。 占領軍も
初めのうちは民主化に熱心で、職場でも労働運動が盛んだった。 私はもと
の庶務課へ復帰したが、私でなければならない仕事はなく、生活も不便だっ
たので長野への転勤を組合を通して申し込むと、案外簡単に許可が下りた。
その転勤理由がおもしろい。 確か 「労働運動要員」 となっていたが、当
時の組合がいかに力があったかが分かる。
長野へ転勤はできても下宿先もないの
で講習所の同級生、高森君に相談して
みると、差し向きオレのところへ来い、と
言ってくれたのには驚き、同時にありが
たかった。
昭和21年の暮れ。私は26歳になって
いた。
(白沢誓三の自分史 つづく)
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