いつも前だけを見てきた(その26)
≪ 人を動かすためには ≫
パーマやカットの講習会を開催し、好評だったにもかかわらず、それでも動
かないのが長野の美容室の大御所だった。 この先生たちを動かしたいと思
い様々な方法を考えてみた。 それには 「日本髪のかつら結い上げ」 しか
ないと気が付いたので、当時 「かつら十日会」 で有名な大沼浩二先生をお
呼びしたところ、長野の美容組合の大幹部の皆さん方が揃って講習会に顔を
出して下さった。 この長野の例に倣って上田でも松本でも美容組合の幹部
にも誘いを掛けた。 その結果は覿面に現れた。 かつら結い上げとなると、
組合の幹部は若い者に負けまいとしてか熱心に出てくれたし、また若い美容
師さんは十日会の理論的な考え方が大層気に入ったらしかった。 企画する
講習会に多くの人が集まってくれる。 美容の仕事を始めて間もない頃だが、
私も社員も大いにやり甲斐を感じていた。
昭和35年だったか、池田内閣が所得倍増政策を発表したので世の中は浮
き足だっていた。 何しろ10年もすると給料が倍になるというのだから誰もが
喜び、若い美容師さんに向けての経営講習会も盛んに行った。 厳しくてもい
ま頑張って修行していけば、いつか独立して自分のお店を持てるんだという
夢を皆が抱いていた時代だったのだ。
この頃のことで思い出すのは、守川先生のお店の磯口先生が紹介してくれ
た 「ヘアーマイド」 だ。 当時のヘアースタイルの固定材として素晴らしい効
果があり、大変良く売れた。 そのメーカーさんが美容室での販売方法につい
て、わざわざ長野の私のところへ来て研究して帰られたほどだ。 この商品の
スプレー化に成功した別のメーカーのGさんはこれを 「ハイピッチ」 と名づけ、
以後寿命の長い商品となって大いにメーカーを支えたようだ。
昭和38年の11月、私は世帯を持って商売をしながら長く住み慣れた西長
野の市営住宅から、現在の新しい住宅へ引っ越すことになった。 引っ越し前
に長男と下見に来ると、ここも市の分譲住宅だったので多くの地割はしてあっ
たが、まだ周囲には葦がたくさん繁茂している。 そして、近所の側溝におかし
なものがいる。 近くで見ようとすると側溝をよじのぼって逃げていったが、あれ
は間違いなく狸だった。 そんな場所だったので、車の出入りも先ず自分で道
路を直さなければならなかったが、それでも44歳にして初めて自分の一軒家
が持てたということで嬉しかったし、家族も大層喜んでくれた。
(白沢誓三の自分史 つづく)
≪ 追 記 ≫
父と母が暮らし、子供たちが生まれ、麻(畳糸)の商売から美容の材料商へ
と広げてきた 「西長野の家」 は、加茂神社の裏側にありました。 私は5年
生までその家にいたので、保育園や小学校時代の思い出と繋がっています。
家は、ちょうど長野の町と鬼無里の中間のような場所にあったため、父の
大勢の兄弟や親戚や村の人たちが長野に用事で出てくると、帰りにはよく
顔を出してお茶を飲んで行ったり、泊っていったりしたそうです。 また、4畳
半の部屋は、父の身内の人がしばしば下宿することになり、若かった母は
それらのことが本当に大変だったと今でもこぼします。
会社のことで覚えているのは、一時期、営業車を 「ピンク色」 にしたこと。
その頃、ピンクの車なんて長野の町を走ってなんかいませんよ。 これも、と
にかく会社の名前を覚えてもらうための父の作戦だったのです。 ただ、社
員には不評だったらしく、数年後には違う色になりましたけどね。(笑)
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