2017年04月08日
大好きだった父のこと
パソコンもスマホも調子が悪く、
記事をアップしようかどうか随分悩みましたが、
書いておくことにしました。
実は、最愛の父を昨年の7月末に送りました。
父は大正9年9月生まれなので
秋には96歳になるはずでしたが願い叶わず、
老衰のため95歳の大往生となりました。
お世話になった先生、看護士さん、相談員さん、ヘルパーさん、
ケアマネさん、フランスベッドさん、ありがとうございました。
あの朝、弟と甥っ子はかろうじて間に合いましたが、
実家に母を迎えに行ったので、私たちは遅くなってしまいました。
父の最期を看取って下さった老健の先生や職員さんには、
もうただただ感謝しかありません。
私がこのブログを書き始めたのは、10年前。
父の会社の残務整理が終わり、ひと段落ついたあとでした。
創業者だった父は、その時86歳。
会社は跡形もなくなったけれど、決して落ち込んではいません。
講習会場を変えて相変わらず操体法を指導していますよ、って
多くの人に知ってほしかったからです。
でも、90歳を過ぎてからは
30時間集中講座がかなりの負担になっていると感じたので、
92歳を迎える前、しなのき、もんぷらなどでの
操体法の指導のすべてを娘の私がやめさせました。
生きがいだった会社と操体法の2つを失い、
父がどれほどの思いでそのあとの日々を送っていったのか、
今となっては娘の私でも想像の及ばないところです。
でも、見ていられなかった。
人の体の心配より、自分の体の心配をしてほしかった。
あの時の私の決断は父には酷だったかもしれないけれど、
あとあとを考えると間違っていなかったと思います。
むしろ遅すぎたのかもしれません。
そのあと、私は父を喜ばせようと
「父の自分史」 をブログにアップしたけれど、
途中から固有名詞が多すぎて編集のしようがなく
やむなくフェイドアウトという形に。
最初は弟と義妹が心配してくれて
デイケアと専門医に通ったのに、
薬が父に合わなかったのか、
夜中に対応の難しいことばかり起きて慌てました。
元気だった親が老いていく姿。 認知症で変わっていく姿。
子供は見たくないし、現実を認めたくはなかったんです。
太極拳、操体法の生徒さんや昔のお客さんには、
父の元気な姿といい思い出だけを覚えていてほしかった。
認知症が進み要介護5になってからは、
デイケアよりもショートステイを増やしてもらう。
でも、父が家に戻るたびに母は疲れきって介護うつになり、
それを見ていた私が、
仕事をしながら実家に寝泊まりするようになりました。
めまいがひどい、と訴える父の脳のMRI検査をしたら、
小脳の問題だと言われました。

ところが、2015年の5月、介護の最中に
母ではなく、私が体調を崩してまさかの入院。
残念ながら仕事を辞めざるをえませんでしたが、
父の介護に専念できるようになったのだから、ものは考え様。
その年の8月に、今度は父が嚥下障害で入院です。
この時は見事に回復して退院でき、大丈夫そうに見えたのに、
11月頃から予期しないことの連続で、母も私もパニック!
ショートステイから戻ってきた年末、
むせがひどく痰も絡んだ父を、救急病院まで運んだりしました。
介護の負担を軽くするため
ケアマネさんと相談し訪問看護にも入ってもらいましたが、
希望の特養は順番待ちで、いつ入所できるか見当もつかない。
正直、あちこちで悔しい思いもいっぱいしました。
一番は、「痰の吸引が家族にもできる」 ということ。
ずっと、資格を持つ看護士さんにしかできないと言われてました。
2016年の4月に2度目の入院をして、完治して、
次に受け入れてくれる施設を探し回るのが最も大変でした。
特養からはOKが来ないし、
紹介された療養型の病院も見に行きましたが、
あまりに暗く古すぎ、父は個室で身体拘束もされると聞き、
私はそんな場所で父を死なせたくないと思いました。
5月GW明けに、やっと老健へ入所が決定。
「痰の吸引は家族もできる」 と聞いたのは、
7月半ば過ぎにターミナルケアの確認をした時です。
なぜ、もっと早く教えてもらえなかったのか?
私はどうしても父を一度実家に連れ戻したかったので、
のどと鼻からの痰の吸引法を指導を受けて一生懸命覚え、
一日だけの帰宅を許されました。
ところが直前(1時間前)にドクターストップがかかり、
あれほど願った父の帰宅は、実現することができませんでした。
「お父さん、やっとうちに帰れるからね。」
顔を見るたび励まし、手を握って約束してきたのに。
今さらそんな不満を並べ立てても愚痴になるだけですね。
学んだことは次に生かしていくしかないんです。
でも、父の介護に専念するようになってからは、
老いていく父をますます好きになっていく自分がいました。
病院でも施設でもお昼ご飯の介助に通い、
一日でも長く生きていてほしいと、そればかり祈っていました。
頬がこけて合わなくなった入れ歯を外し、
食べることも話すことも次第に困難になっていく中、
父はベッドの上で力の弱くなった目で私を見つめ、「ありがとう」。
次に必ず 「お母さんは?」。
いつだって、大好きな母のことばかり心配していた父。
病院でも施設でもみんなに愛された、しわくちゃの笑顔。
あれから8ヶ月が過ぎました。
きょうもブログ更新のため実家に来て、
父の部屋のパソコンの前に座っています。
まだどこにも手を付けられない室内。
本棚には40年も研究し指導してきた
操体法の講習会資料や写真や名簿が山ほど。
机の上に、懐かしい父の文字。
子供たちと孫たちの連絡先。
一番上に書いてあるのは、私の名前と電話番号です。
ゆっくりでも見事なブラインドタッチで自分史を書いていた、
元気な頃の父の姿を思い出しています。
記事をアップしようかどうか随分悩みましたが、
書いておくことにしました。
実は、最愛の父を昨年の7月末に送りました。
父は大正9年9月生まれなので
秋には96歳になるはずでしたが願い叶わず、
老衰のため95歳の大往生となりました。
お世話になった先生、看護士さん、相談員さん、ヘルパーさん、
ケアマネさん、フランスベッドさん、ありがとうございました。
あの朝、弟と甥っ子はかろうじて間に合いましたが、
実家に母を迎えに行ったので、私たちは遅くなってしまいました。
父の最期を看取って下さった老健の先生や職員さんには、
もうただただ感謝しかありません。
私がこのブログを書き始めたのは、10年前。
父の会社の残務整理が終わり、ひと段落ついたあとでした。
創業者だった父は、その時86歳。
会社は跡形もなくなったけれど、決して落ち込んではいません。
講習会場を変えて相変わらず操体法を指導していますよ、って
多くの人に知ってほしかったからです。
でも、90歳を過ぎてからは
30時間集中講座がかなりの負担になっていると感じたので、
92歳を迎える前、しなのき、もんぷらなどでの
操体法の指導のすべてを娘の私がやめさせました。
生きがいだった会社と操体法の2つを失い、
父がどれほどの思いでそのあとの日々を送っていったのか、
今となっては娘の私でも想像の及ばないところです。
でも、見ていられなかった。
人の体の心配より、自分の体の心配をしてほしかった。
あの時の私の決断は父には酷だったかもしれないけれど、
あとあとを考えると間違っていなかったと思います。
むしろ遅すぎたのかもしれません。
そのあと、私は父を喜ばせようと
「父の自分史」 をブログにアップしたけれど、
途中から固有名詞が多すぎて編集のしようがなく
やむなくフェイドアウトという形に。
最初は弟と義妹が心配してくれて
デイケアと専門医に通ったのに、
薬が父に合わなかったのか、
夜中に対応の難しいことばかり起きて慌てました。
元気だった親が老いていく姿。 認知症で変わっていく姿。
子供は見たくないし、現実を認めたくはなかったんです。
太極拳、操体法の生徒さんや昔のお客さんには、
父の元気な姿といい思い出だけを覚えていてほしかった。
認知症が進み要介護5になってからは、
デイケアよりもショートステイを増やしてもらう。
でも、父が家に戻るたびに母は疲れきって介護うつになり、
それを見ていた私が、
仕事をしながら実家に寝泊まりするようになりました。
めまいがひどい、と訴える父の脳のMRI検査をしたら、
小脳の問題だと言われました。

ところが、2015年の5月、介護の最中に
母ではなく、私が体調を崩してまさかの入院。
残念ながら仕事を辞めざるをえませんでしたが、
父の介護に専念できるようになったのだから、ものは考え様。
その年の8月に、今度は父が嚥下障害で入院です。
この時は見事に回復して退院でき、大丈夫そうに見えたのに、
11月頃から予期しないことの連続で、母も私もパニック!
ショートステイから戻ってきた年末、
むせがひどく痰も絡んだ父を、救急病院まで運んだりしました。
介護の負担を軽くするため
ケアマネさんと相談し訪問看護にも入ってもらいましたが、
希望の特養は順番待ちで、いつ入所できるか見当もつかない。
正直、あちこちで悔しい思いもいっぱいしました。
一番は、「痰の吸引が家族にもできる」 ということ。
ずっと、資格を持つ看護士さんにしかできないと言われてました。
2016年の4月に2度目の入院をして、完治して、
次に受け入れてくれる施設を探し回るのが最も大変でした。
特養からはOKが来ないし、
紹介された療養型の病院も見に行きましたが、
あまりに暗く古すぎ、父は個室で身体拘束もされると聞き、
私はそんな場所で父を死なせたくないと思いました。
5月GW明けに、やっと老健へ入所が決定。
「痰の吸引は家族もできる」 と聞いたのは、
7月半ば過ぎにターミナルケアの確認をした時です。
なぜ、もっと早く教えてもらえなかったのか?
私はどうしても父を一度実家に連れ戻したかったので、
のどと鼻からの痰の吸引法を指導を受けて一生懸命覚え、
一日だけの帰宅を許されました。
ところが直前(1時間前)にドクターストップがかかり、
あれほど願った父の帰宅は、実現することができませんでした。
「お父さん、やっとうちに帰れるからね。」
顔を見るたび励まし、手を握って約束してきたのに。
今さらそんな不満を並べ立てても愚痴になるだけですね。
学んだことは次に生かしていくしかないんです。
でも、父の介護に専念するようになってからは、
老いていく父をますます好きになっていく自分がいました。
病院でも施設でもお昼ご飯の介助に通い、
一日でも長く生きていてほしいと、そればかり祈っていました。
頬がこけて合わなくなった入れ歯を外し、
食べることも話すことも次第に困難になっていく中、
父はベッドの上で力の弱くなった目で私を見つめ、「ありがとう」。
次に必ず 「お母さんは?」。
いつだって、大好きな母のことばかり心配していた父。
病院でも施設でもみんなに愛された、しわくちゃの笑顔。
あれから8ヶ月が過ぎました。
きょうもブログ更新のため実家に来て、
父の部屋のパソコンの前に座っています。
まだどこにも手を付けられない室内。
本棚には40年も研究し指導してきた
操体法の講習会資料や写真や名簿が山ほど。
机の上に、懐かしい父の文字。
子供たちと孫たちの連絡先。
一番上に書いてあるのは、私の名前と電話番号です。
ゆっくりでも見事なブラインドタッチで自分史を書いていた、
元気な頃の父の姿を思い出しています。
≪ 追 記 ≫
大正、昭和、平成と、
95年の人生で、父が出会った本当に多くの皆様。
私よりも父のことを良くご存知の方は、
きっと大勢いらっしゃると思います。
皆様が父を励まし、支え続けて下さいましたおかげで、
父は最後まで豊かな人生を送ることができました。
心から感謝申し上げますとともに、
皆様のご健康とますますのご活躍をお祈りいたします。
大正、昭和、平成と、
95年の人生で、父が出会った本当に多くの皆様。
私よりも父のことを良くご存知の方は、
きっと大勢いらっしゃると思います。
皆様が父を励まし、支え続けて下さいましたおかげで、
父は最後まで豊かな人生を送ることができました。
心から感謝申し上げますとともに、
皆様のご健康とますますのご活躍をお祈りいたします。
Posted by ロミママ at 15:31│Comments(2)
│父の自分史
この記事へのコメント
ロミママさん、こんばんは(^_^)
涙で最後まで読めませんでした(T . T)
私の父の死と重なり、当時を思い出しました。
ロミママさんは、私の何倍も何倍も、
計り知れない程のご苦労をされたのですね(/ _ ; )
月並みな言葉を並べるのが恥ずかしいですが…
私の父の場合は、私と母で交代で病院に泊まりで付き添いましたが、
父の最後は母が看ていた日の夜でした。
痰が絡み、看護師さんが吸引した後、とても苦しそうに容態が変わり、
最後の言葉は「有難う」だったそうです。
私も最後に家族に感謝出来ればいいな、と思いました。
ロミママさんがこうして懐かしんでいらっしゃること、
お父さんきっと天国で喜んでいらっしゃるでしょうね(*^^*)
涙で最後まで読めませんでした(T . T)
私の父の死と重なり、当時を思い出しました。
ロミママさんは、私の何倍も何倍も、
計り知れない程のご苦労をされたのですね(/ _ ; )
月並みな言葉を並べるのが恥ずかしいですが…
私の父の場合は、私と母で交代で病院に泊まりで付き添いましたが、
父の最後は母が看ていた日の夜でした。
痰が絡み、看護師さんが吸引した後、とても苦しそうに容態が変わり、
最後の言葉は「有難う」だったそうです。
私も最後に家族に感謝出来ればいいな、と思いました。
ロミママさんがこうして懐かしんでいらっしゃること、
お父さんきっと天国で喜んでいらっしゃるでしょうね(*^^*)
Posted by ミナコ
at 2017年04月08日 23:30

☆ ミナコ様 ☆
場所がどこであれ、人生最期の時間は、
家族に見守られながらというのが理想ですね。
私の父ね場合、最初は老老介護だったから
本当に母が大変でした。
私が介護を引き継ぐようになってからは、
わけの分からない介護保険制度と
その時々で代わる何人もの担当者相手に
闘っていたように思います。
評判のいい大きな施設で、
納得できないことや冷たくされたこと、
結構ありましたよ。
まず、担当者との信頼関係が大事ですよね。
父のケアマネさんが二人目だったの、
随分たってから母に聞いたんです。(・・;)))
場所がどこであれ、人生最期の時間は、
家族に見守られながらというのが理想ですね。
私の父ね場合、最初は老老介護だったから
本当に母が大変でした。
私が介護を引き継ぐようになってからは、
わけの分からない介護保険制度と
その時々で代わる何人もの担当者相手に
闘っていたように思います。
評判のいい大きな施設で、
納得できないことや冷たくされたこと、
結構ありましたよ。
まず、担当者との信頼関係が大事ですよね。
父のケアマネさんが二人目だったの、
随分たってから母に聞いたんです。(・・;)))
Posted by ロミママ
at 2017年04月10日 20:11

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