2013年03月27日
いつも前だけを見てきた (その6)
≪ いよいよ東京へ ≫
私が高等科を卒業した翌年、昭和11年2月26日にいわゆる2・26事件が
起きて世の中は騒然としていた。 私は将来を決めかねてしばらく実家の農
業の手伝いをしていたが、丁稚奉公のために東京へ出ることを決意した。
候補先は2軒あった。1軒目は、お世話になった松下三男人(マツシタミナト)先生
の知り合いで小田切村出身の洋酒店、長田秋男さん方。 もう1軒は、柵村
出身の田畑酒店だった。
昭和12年3月、結局住み込み先を深川の田畑酒店と決め、16歳の私は
本家の理喜冶爺さんとともに上京した。 私の東京行きに難色を示していた
父は、この日の朝も起きてはこなかった。
鬼無里から東京へ出て驚いたことは幾つもあった。 まず、家が狭いこと。
食事をする部屋の隣りに便所、寝る部屋は1つ。 店の広さは間口が2間程
で奥行きが3間。 大きな4斗樽が置かれていたのを覚えている。 倉庫は
別にあるらしい。 店員は、鬼無里出身の番頭の松本幸雄さんと柵村出身
の先輩と私の3人で、私の仕事は差し向き 「空きビン洗い」 だった。 上京
する前に善光寺下の武田靴店で新しい革靴を買って履いて行ったが、店に
は作業用の長ぐつもない。 ビンを洗うたびにその革靴がびしょびしょになる
のがとてもつらかった。 また、自転車で配達に回る時には、背が低いので
足が届かなかったり、荷台が重くて前が上がってしまったり、失敗談はいろ
いろとある。
ある日、新入りの私が暇さえあると本ばかり読んでいるのを見かねた番頭
さんが、私を店の外へこっそり呼び出してこう言った。 「君も本が好きで本当
に勉強したいなら、早いうちに店を変えた方がいい。 5年や10年勤めても
自分の店を持てるかどうかは分からない。 私もここで10年になるから。」
私は驚くと同時に、そう言ってくれた松本さんの親切と勇気に今でもなお感謝
と敬意を表したい。 上京間もない私が、その後何と言って田畑酒店をやめ、
新宿区小滝橋にある長田洋酒店を訪ねて働くようになったか、そのあたりの
記憶は定かではないが、何も知らない東京でよく一人で行動できたものだと
我ながら感心する。 それは上京してから2か月後の、昭和12年5月のこと
だった。
(白沢誓三の自分史 つづく)
私が高等科を卒業した翌年、昭和11年2月26日にいわゆる2・26事件が
起きて世の中は騒然としていた。 私は将来を決めかねてしばらく実家の農
業の手伝いをしていたが、丁稚奉公のために東京へ出ることを決意した。
候補先は2軒あった。1軒目は、お世話になった松下三男人(マツシタミナト)先生
の知り合いで小田切村出身の洋酒店、長田秋男さん方。 もう1軒は、柵村
出身の田畑酒店だった。
昭和12年3月、結局住み込み先を深川の田畑酒店と決め、16歳の私は
本家の理喜冶爺さんとともに上京した。 私の東京行きに難色を示していた
父は、この日の朝も起きてはこなかった。
鬼無里から東京へ出て驚いたことは幾つもあった。 まず、家が狭いこと。
食事をする部屋の隣りに便所、寝る部屋は1つ。 店の広さは間口が2間程
で奥行きが3間。 大きな4斗樽が置かれていたのを覚えている。 倉庫は
別にあるらしい。 店員は、鬼無里出身の番頭の松本幸雄さんと柵村出身
の先輩と私の3人で、私の仕事は差し向き 「空きビン洗い」 だった。 上京
する前に善光寺下の武田靴店で新しい革靴を買って履いて行ったが、店に
は作業用の長ぐつもない。 ビンを洗うたびにその革靴がびしょびしょになる
のがとてもつらかった。 また、自転車で配達に回る時には、背が低いので
足が届かなかったり、荷台が重くて前が上がってしまったり、失敗談はいろ
いろとある。
ある日、新入りの私が暇さえあると本ばかり読んでいるのを見かねた番頭
さんが、私を店の外へこっそり呼び出してこう言った。 「君も本が好きで本当
に勉強したいなら、早いうちに店を変えた方がいい。 5年や10年勤めても
自分の店を持てるかどうかは分からない。 私もここで10年になるから。」
私は驚くと同時に、そう言ってくれた松本さんの親切と勇気に今でもなお感謝
と敬意を表したい。 上京間もない私が、その後何と言って田畑酒店をやめ、
新宿区小滝橋にある長田洋酒店を訪ねて働くようになったか、そのあたりの
記憶は定かではないが、何も知らない東京でよく一人で行動できたものだと
我ながら感心する。 それは上京してから2か月後の、昭和12年5月のこと
だった。
(白沢誓三の自分史 つづく)
Posted by ロミママ at 19:10│Comments(0)
│父の自分史
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