2013年09月08日

いつも前だけを見てきた (その21)

      「畳糸の行商と産直販売」

  さて、畳糸の全国調査と思ったが、着て出るものもないし、第一旅費もない。 
 レインコートは家内がどうにか間に合わせてくれたが、旅費はそうはいかない。 
 そこで私が考えたのは、各地の問屋を目当てにして近くの駅まで畳糸をいくつ
 も送りつけておいて(50~60kgを駅留めで)、これを持って売り歩く。 つまり
 行商だ。 これらすべてを現金化して帰らなければならない。 送り返すことは
 経費損になるからできないし、私には家族がある。 意地もあった。 業界の
 名簿を頼りに、東京、横浜、小田原、静岡、名古屋、京都、大阪、鳥取、福岡、
 そして四国の高松まで、若かったとはいえ、重い畳糸を担いでよく歩いたもの
 だ。 大変なことではあったが、幸いなことに特に関東では大手問屋の信用を
 得て仕事は割合と順調に進んだ。 この貴重な経験は、その後の計画を進め
 るのに大いに役立った。

  従来、畳糸市場の相場のようなものは、大抵長野の問屋さんの思惑や産地
 の気候などが唯一の情報源で作られていたようだった。 私は、産地、消費地、
 そして問屋、経済連を含めての生の生産地情報が必要だと感じ、自分で作れ
 ないかと思っていた。 畳糸の流通経路も、仲買をしていた実家の父が集荷し
 て私が消費地へ販売する、今で言うと 「産直方式」 だが、その時の私の中
 ではことさら新しい方式ではなかった。 そして、情報誌は最初考えたような立
 派なものは出来なかった。 小さなはがき1枚程度のもので、それも私に都合
 よく書かれていたのだが、「白沢の商報は当てになる。」 と、どういうわけか
 2~3ヶ月で業界の評判になってしまった。 


  ここで思い出すことがある。 商売をするには必ず資金が要る。 畳糸を扱
 うには相当の資金が要るが、私などは勿論、鬼無里の父の所にも余裕など
 ない。 結局銀行から借りるより他はなく、当時の取引銀行の支店長さんの厚
 意で、5万円ずつを毎日のように父のところに届けることができた。 何しろ約
 束手形で借りるのだが、一度も延滞利息を払ったことはなく、むしろ戻し利息
 をいただいたものだった。   

  しかし、商売が順調なのは10年ほどだった。 前回も書いたが、麻の栽培が
 全面的に禁止になり、製麻会社が民需に転換して畳糸を作って売り始め、確実
 に畳糸市場を侵食していったのだ。



                        (白沢誓三の自分史  つづく)



  



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Posted by ロミママ at 10:12│Comments(0)父の自分史
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